昭和48年02月10日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知  らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったと  いうことがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 今福岡の安東さんの所の工場が、田主丸に出来ております。安東さんを前にして言っておかしいですけれども、大体工場ども作れると言った様な、現在のお店の状態じゃないのです。もう本当に借金から借金、まぁ言うならやっとかっと回っておるというのが、明光商事の状態でしょう。銀行から一杯お金を借りてあるし、従業員の方達もある意味合いでは見切りを付けて、殆ど辞めてしまっておると言った様な状態の中にです。
 新たに田主丸に、工場を作ると言った様な事は、第一土地を買う事ですら、家を建てる事なんか、全然出来る筈はないです。けれども御神意のまにまに、田主丸にそうされる事を決心されて、それで本当に不思議なくらいに、勿体ないと思われる土地のおかげを頂いて。それから工場も愈々建てさせて頂く運びにならせて頂いた。田主丸の駅の近所らしいです。それが最近そこを土盛りをしなければならない。
 もう早うから土盛りをあちらにもこちらにも、頼んであるのですけれども一台持って来ちゃそのまま放からかし、一台持ってきちゃ放からかし、いつ迄たっても土盛りが出来んのですよ。それで度々お願いに見えますんですから。けれどもね一番初めのとこんにきから、いっちょ考えてご覧ああいう素晴らしい、神様のお繰り合わせとおかげの中に、された事だから間違いないおかげ頂くよ、と私は是だけしか言わんのです。
 例えば銀行からお金借りるでも、福岡銀行とどこどこ銀行とこう、始めから福岡銀行であった。所が福岡銀行は、借った上にも借っちゃるもんだから、幾ら行ったっちゃもうでけんとこう言う。だからもう一つの銀行に相談に行きますとこう言う。けれども神様は、どうでも、福岡銀行に行けと言う事じゃったですよ。何回も何回も。そしたら仕舞には、もうあんたには負けたと言った様な事でね、思う以上に貸して貰う事になった。おかげで土地も購入出来た。
 おかげで簡単な工場の一つも建てられるようなお繰り合わせになって、そこへ地上げをしなければならないという段になっておる所が、そんな風で、頼んでもそれは一生懸命やっとられるらしいんですけれども、その泥がない。また車がない。いろんな事情で、出来なかったんです。だから私共が神様のこういう働きを頂いておると言う所を、まず知ったらですね、後もおかげだという事を、一つ信じなければいけません。
 昨日一昨日でしたご主人の方が、兎に角いけませんから、バラスを入れると倍かかるそうです。泥じゃなくてバラスなら。だから泥がなかなら、愈々バラスでんせじゃこてというので、頼むとこう言われるのです。だからそげなこつする事はいらんて、いうなら金のあるばしするごと倍も掛るごたる、バラスてんなんてんよりか、ちゃんと神様のご都合の中にあるのだから、そげな事はしなさる事は要らんと言うて、万事よろしくお願い致しますと言うて、また工場の方へ田主丸の方へ行かれました。
 それから直ぐまたお礼に出て見えたんですけれども。もう親先生恐れ入りましたという事なんです。ここの地主さんはどんな方じゃろうかと言うて、田主丸の役場の人達が探しに来ちゃった。そこでちゃっとぱったり会うとる。そしてここに泥ば入れさせてくれち言うちから、向こうから頼みに来なさった。それはもう願ったりかなったりであり、しかも、前に頼んだ人がブルトーザーを、そこの田んぼの中に入れてあった。
 役場の備品の中に、ブルトーザーの運転の出来る人があるから、それもうちの方で使うて、してあげますから、泥を入れさせて呉れじゃった。おかげ頂いた。してみるとさぁどこに頼んでも出来なかった。ここでもしだごだでやってくれんと言う、その一切がおかげである事が判るでしょう。初めてあれもおかげであった、これもおかげであった。わざわざ倍も出さんでバラスを入れんで良かったと言う事になるでしょう。
 信心しておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いぞと、こう仰る。だから多いぞと言う所を、私共は是は合楽の人達はですね、そこん所をいっちょ本当に判らなければいけないと言う事は、事そうして思い立つ、お金も無いのに事情もこんな事情であるのに、神様が田主丸に工場を持てと言われたらです、もう本当に置いたものを取る様にとはいかなかった。さあ銀行から金を借りる、
 もう絶対福岡銀行は貸さんち言う。だからもう一つのここに相談に行く銀行があるからと、けれどもそこは絶対行くなじゃったですよ。断られても断られても、やっぱり福岡銀行に行けじゃった。そしてもう安東さんの顔見ると、入り口に立っとってから、もう銀行に入れんち言うごと反対の人がおったんです。もう一番最後の、今日ぎりと言うごたるで行った時には、やっぱりその人が丁度もう銀行のしまい方で、あんたが来たっちゃ出来んがのと言うて、こうやって手を広げらっしゃったもん。
 その人がですね、その人が貸すように段取り付けてくれたんですよ。一番安東さんには貸すなと言いよった人が。もう本当に神様の演出には、いつの場合でも恐れ入ってしまいますけれどね。けれどもそこん所を、永年信心させて頂いておって、神様の働きには間違いがない。親先生が仰る事には間違いがないと言う、そこん所を一つしっかり頂いてです。そして途中で起きてくる様々な事は、お取次ぎを頂いて右と仰有れば右、左と仰れば左とそれを押し上げていくという事。
 そして所謂土盛の事だって、それこそ願ったりかなったりとは、この事だと言う様なおかげになっておる。本当にあれもおかげであった、是もおかげであったとです、判らせて頂く様にならなければ、だからいつもイライラしたり、不安であったりしなければならないと言う事なんです。私は素直と言う事、信心に一番求められる素直心。只素直心というのは、信心で言う素直心というのは、その時点で有り難いと頂く事だと、今朝頂きました。だから神様のそうした働きを、
 まず知っておらなければ出来んのですそれが。いや知っておっても実際は出来んのです。けれども、それを神様の働きに間違いない、それは自分が痛い思いをする事であったり、恥ずかしい思いをする事であるかも知れませんけれども。この時点で有り難く頂くのが、本当なのだけれども。頂けん所に自分の信心不足のある所を詫びて、そこん所を追及する、検討していくと言う事なのです。そして成る程おかげと言うものは、目に見えるおかげより目に見えない所の方が、大きいんだと言う事実をです分からせて貰う。
 そこで例えば五つのおかげであるならば、十のお礼を申せと仰る。十のおかげと思うたら、二十のお礼を申せと。そういう氏子が心の状態になれば、もう二十のおかげしてやると仰る。実は私共が十と思うておるおかげをです。二十とお礼を申し上げても、実を言うたら足らんのですまだ。目に見えない所のおかげの事は、気がついていないのですから。だからどげんお礼申し上げても、もう嘘でも良いけん、広大なおかげを頂いて広大なおかげを頂いて有難うございますと言うとって、まぁだ足らん位です。
 ですからそういう心の状態なら、もう次にはまた十のおかげを二十と言や、二十のおかげにしてやろうと仰るのが、神様なのですから。どうでも一つあれもおかげこれもおかげと分かるような、信心をさせて頂かなきゃならん。先日お書物を読ませて頂いておりましたら、法然上人様の事が書いてあった。いわゆる浄土宗の始祖ですね。法然上人様。名僧列伝の一番におられる方。親鸞聖人様は名僧に入っちゃないです。
 生臭き食べたり家内持ったりしとるけん、あげんとは名僧じゃないと言う事になっとるそうですね。けども法然上人様はそれをやはり行じ抜かれた方。岡山の駅から、一里ばかり離れた所に、誕生寺というお寺があるそうです。そこが法然上人様が誕生された跡。大きな豪族のお家にお生まれになった。ある時人の恨みを受けられて、夜討を受けられた。お父様が、その夜討の為にもう大変な深手を負われた。上人様が丁度十三歳の時。それで子供ですからね、弓で相手を射られた。
 相手の片一方の目に矢が立った。それでそのままその人は逃げ去ったそうですけれども。そういう深手を負われた中に、上人様を手元に呼ばれてから、お父様が仰っておられる事がです。決して仇討をするなと言う事であった。お前が仇を討って呉れたら、今度はお前がまた、その子に仇と狙われなければならない。こう言う事を繰り返しておったんではいけんのだから、仇討ちだけはしてくれるなと。そして敵も味方も助かる道を選べと仰った。敵も味方も助かる道。
 上人様はそのままその近所のお寺にお弟子に入られて、それから次々と比叡に登られたり、様々な勉強をなさり、それから仏道修行をなさった。そしてあぁいう生き仏様と、言われるようなお方になられた。それはどこにそのおかげが有ったかと言うと、お父さんをいうなら、死に至らしめるような深手を負わせた、その人のおかげでそういう、上人様の道と言うか、生き仏様にも成られたという事なんです。してみるとですその事が、おかげであるという事が分かるでしょうが。
 けれどもそれをおかげの道をです、本当に敵も味方も助かる為にはと言う、何十年間にわたっての信心修行が出来られてこそです。初めてあれもおかげであると言う事が分かるのです。だからお話を聞いて、ほんに成る程そうたいだけじゃ分からん。合楽の場合は皆さんがです、例えば一つの事を起されるでも、初めから御神意を頂いて、例えば安東さんなんかの、親先生任せという生き方は、まぁちょっとした手本でしょうね。
 永い間もう本当に親先生任せ。それがそんなら最近は、お父さんも子供達もまぁまぁお父さんなんかは、最近は非常に帰依が深くなって、本当親先生が言いなさる通りしときゃいいなぁという事になってき。子供もそれにどうやらこうやら、ついて来るようになり、永い間そしてそこにハッキリ、神様の言う通りしとればおかげ頂くでしょうがというものを、現わしてきておる。
 今度の場合なんかは、そういうおかげを受けられた訳ですけれども。そこでです私共が、おかげでないと思うておる事。そのおかげでない、こげなこつじゃいかんと思うておる事。その思うておるその事を、もちっと検討しなければいけない。それを検討するのじゃなくて、信心を愈々深めて行かなければならない。そしてそれもおかげであると分からせて頂く所迄、信心は進めて行かなければならないもんだと言う事です。
 あれはいかん是はいかん、それはおかげじゃないと思うておる。その事の方が実を言うたら、おかげの場合が多いのです。それは自分の本当に仇討ちでもせにゃおられないような、仇のような、その人の向こうにです。素晴らしい御神意と言うか、神様の大きなおかげが潜んでおると。それも只、おかげ丸出しに出とる訳じゃない。信心の検討、研究をさせて頂いておるうちに。
 ハッキリそれが神愛であった、おかげであったと分かる。そういう体験を積んでいくのですから、あれもおかげである、過去の事の全部が生きて来る。過去の永い苦労なら苦労も生きて来る。そして現在ふんまえておるところの、例えば難儀と思っておる、その難儀も、又、おかげである。これもおかげであると分かる時です、初めて本当の信者じゃと仰るのですからね。
   どうぞ。